2016.08.05

●まっ黒いおべんとう●

本日もお立ち寄りありがとうございます。
 今日も灼熱ですので、熱中症にはくれぐれもご注意ください。

 今朝、NHKのニュースで、広島で被爆された子供さんの、おべんとうにまつわる悲しいお話が紹介されていました。 朝から、涙腺が こっぱみじんです。

 広島の原爆資料館に展示されている、被爆者の遺品の中に、つぶれたアルマイトのお弁当箱があります。中身は炭化した御飯とおかず少々。真っ黒な炭になってしまっています。

 この遺品にまつわるエピソードは、真っ黒なおべんとう という絵本にもなっており、詳しくお知りになりたい方は、「しげるさん べんとう」で検索してみてください。

 同様のおべんとうを、私は、高校の修学旅行先の長崎でみました。こちらのお弁当は、御飯が半分しかはいってませんでした。おそらく、それしか用意できなかったのでしょう。戦時中の食糧事情については、実際に壮絶な飢えを経験した祖母と母から、死ぬほど聞かされていたので、この弁当箱に、半分だけはいった御飯の背景にある、お母さんの思いが痛いほど伝わってきました。子供に食べさせるために、必死に努力して、やっとこれだけ用意できた精一杯のおべんとう。大切な着物を質に入れたかもしれないし、過酷な労働に身を投じたかもしれません。その、飯が半分だけ入ったお弁当には、おかずは 無かったと記憶しています。

 この おべんとう。 何が悲しいって、食べられることなく、そのまま炭になってることです。 原爆の火に焼かれて亡くなってしまうことが、その方にとって避けられない運命だったら、せめて、被爆の前に、このお弁当を食べさせてあげたかったじゃないですか。

 当時、まだ高校生だった私は、衝撃と悲しさで、展示の前で、棒立ちになって一歩も動けなくなったことを鮮明に覚えています。 戦争反対とか平和が大事とかいう事は、一切 頭に浮かびませんでした。ただただ このお弁当を用意したお母さんの想いと、このご飯を食べることをものすごく楽しみにしながら、思いが叶う事なく亡くなってしまった子供の無念にとらわれていました。そのあとも ずっと食べ物のことだけ考えていた気がします。

 とくに、料理下手な私の母親が作る、茶色一色の、醤油の味しかしない、無味乾燥な弁当について・・「おなか一杯食べられることを幸せと思い、感謝すべきところを、友達の持ってきた綺麗な弁当を見て、ついつい うらやましく思う自分がバチあたりなのか・・・せっかく食べ物がふんだんに手にはいる時代になったのに、このようなものしか作れない母親がバチあたりなのか」 という、それこそバチあたりな想いが、弁当の時間が来る度に私の心をよぎるようになりました。

 その問いに対する答えは、30年以上たった今でもみつかっていませんが、当時、まっ茶色なお弁当を綺麗に完食し、おいしかったよと母親に返却していた私は、そんなにバチあたりじゃなかったようにも思います。


     以上。三鷹・吉祥寺のペットドクター いのかしら公園動物病院の石橋でした。